関本高成/せきもとたかなり
略歴
高校卒業後、鍼灸学校に通い鍼灸師の国家資格を取得。
1997年にケッズトレーナーへ入社。格闘技K-1の選手である角田信朗氏/故アンディ・フグ氏のケアや実業団東京アート卓球部専属トレーナーなどを勤める。その他、一般の方、プロ・アマを問わず、ダンサー・ゴルファー・競輪・ランナー・サッカー・バレーボール等の球技競技者の方などのケアをして経験を積む。
ケッズトレーナーを離れた後は、台湾プロ野球チーム誠泰COBRAS専属トレーナーを経て、東北楽天ゴールデンイーグルスの専属トレーナーとして7年間チームに帯同。プロの第一線で戦う選手たちのケアを日夜行い、治療家としてのスキル、経験を高める。
2013年、イグナル鍼灸院を開業。
経歴
1997年 ケッズトレーナー入社
2005年 台湾プロ野球 誠泰COBRAS専属トレーナー 台湾シリーズ進出
2006年 東北楽天ゴールデンイーグルス入団 専属トレーナーとしてチームに帯同
2006年〜2008年 2軍帯同
2009年〜2012年 1軍帯同
2012年 シーズン終了後楽天イーグルス退団
2013年 イグナル鍼灸院 開業
この道に進んだきっかけ
私が鍼灸師の道を目指したきっかけは、高校時代にまでさかのぼります。
私は高校時代の3年間を全寮制の学校で過ごしました。寮の規則は非常に厳しく、1ヶ月に点呼に5回遅刻すると丸坊主になって謹慎となるようなところでした。その厳しさゆえに、毎年1年生のうちの何人かは最初の1ヶ月で逃げ出すほどでした。
そんな学校で、私は野球部に所属していました。野球部に入ったのはスポーツが好きだったからです。私はけっして上手なプレイヤーではなかったため、試合に出ることはあまりありませんでしたが、部活は楽しく充実していました。
私自身は高校時代の3年間に故障をした事はありませんでしたが、チームメイトの中には痛みを抱えながら練習をしていたり、故障によって離脱を余儀なくされた仲間たちが多くいました。
そんなチームメイトの姿をみて、私はとても心が痛みました。
「A君は腰が痛くなければもっといいプレーができるはずなのに・・・。」
「主力のB君が抜けたらチームの戦力が落ちてしまう。」
「C君が練習に参加できない姿を見るぐらいなら、僕が変わってあげたいくらいだ。」
などと思っていました。
今考えると、当時から私は、試合で活躍してスポットライトを浴びるような立場になることよりも、裏方として試合に出る選手のサポートをするほうが向いていたのかもしれません。
怪我などで困っているチームメイトのために何か自分に出来る事はないかと思い、彼らの部屋に行き、我流ではありましたがマッサージやストレッチをしてあげるようになりました。
終わった後に、
「気持ちよかった!」
「軽くなったありがとう」
と言ってもらえた事、痛みを抱えて辛い思いをしている仲間たちの役に立てた事が自分の喜びになりました。
高校卒業後の進路を決める時、真っ先に頭に浮かんだのは、チームメイトたちの顔や感謝の言葉でした。
「疲労や痛み、怪我で困っている人を治してあげる仕事がしたい!」
それが自分にとっても最もやりがいのある仕事に思えました。
治療家への道を強く決意した私は、高校卒業と同時に医療専門学校に入学しました。
修行時代
昼間は整骨院で見習いとして働き、夜間部の鍼灸学校に行き授業を受けるという生活を3年間続けました。
努力の甲斐あって無事国家試験に合格し、鍼灸師の資格を取得することが出来ました。
「目標だった治療家になれる!たくさんの患者さんに喜んでもらえるように頑張るぞ!」とワクワクしていたのを今でも覚えています。
資格取得後は、より多くの経験をして自分を高めたいという思いからケッズトレーナーという、一般の方、バレエダンサー、アーティスト、プロスポーツ選手まで幅広い治療サポートをしている会社に入社しました。
ケッズトレーナーでは、一流のスポーツマッサージ技術を学び、患者さんの症状に応じたアプローチ方法を日々研究し、技術を磨きました。
ケッズトレーナーには8年間在籍し、そこで多くの患者さん、スポーツ選手と出会い、たくさんの笑顔を頂きました。
台湾へ
その後、きっかけをもらい、台湾の誠泰COBRASというプロ野球チームの専属トレーナーとして1年間台湾へ行くことになりました。監督は西武ライオンズで活躍されたオリエンタルエクスプレス郭泰源さん、バッティングコーチには読売ジャイアンツで活躍されたアジアの大砲、呂明賜さんでした。
まさか自分が海外で働くことになるとは夢にも思っていませんでしたので、最初は文化、言語の違う異国の地で、はたしてやっていけるだろうか?と不安だらけでした。
しかしそんな不安も、現地に行ってトレーナーとして働き始めるとすぐに消え去りました。言葉は通じなくても「良くしてあげたい」という気持ちは相手に伝わったのです。
シーズン終了前、球団から来季のトレーナー契約はしないと伝えられました。球団にも都合があるので仕方がないと思いましたが、チームの選手のみんなが球団に来季も私を残してほしいと嘆願してくれました。
そんな彼らの想いがとてもうれしく、感謝の気持ちで一杯になりました。彼らとはたった1年の付き合いでしたが、今でも忘れることはできません。
楽天イーグルス入団
翌年、台湾での実績を買われ、東北楽天ゴールデンイーグルスにメディカルトレーナーとして入団しました。私はイーグルスにその後7年間在籍することになりましたが、その初年度を二軍のトレーナーとしてスタートしました。
当時、イーグルスは設立されて2年目の若い球団でしたが、プロ野球チームであることに変わりはありません。二軍に所属する選手達は一軍を目指して死に物狂いの日々を過ごしていました。
私が入団した年は高卒ルーキーが3人いました。(銀次選手、枡田慎太郎選手、片山博視選手)
プロ野球の世界では、毎年即戦力の大学生、社会人が入ってくるため、一軍を経験できずに引退していく高卒選手も少なくありません。
私にできるのは、彼らが試合で実力を発揮できるように、そして彼らがいつ一軍に呼ばれても良いように、彼らの体のケアをすることだけでしたが、日々努力を積み重ねている彼ら3人の姿を見て、いつか一軍で活躍することを願っていました。
現在、2人がNPBを引退しましたが、2013年の日本シリーズでは主力としてファンの歓声を浴びている姿を見て感動し、とてもうれしく思いました。
この3人は、歳は違えど私にとって「同期入団」だったので、非常に思い入れがあります。今後もチームを引っ張るような存在でいて欲しいと思います。
4年目、二軍での働きが評価され、私は一軍に帯同することになりました。
一軍の選手の多くはどこかしら痛みを抱えながらプレーしています。それでも試合で結果を出せなければファンから罵声を浴び、翌朝のスポーツ新聞で叩かれます。不調が続けば二軍に落とされることもあります。
精神的に追い詰められた状況で毎日を闘う彼らのケアをするのは、私にとっても相当なプレッシャーでした。技術的なことは私にはどうすることもできませんが、せめて体がまともに動くように、痛みが少しでも和らぐように、という思いでやっていました。
一軍でも主力の選手、特に先発ローテーションの投手はチームの要となるため、彼らの体のケアは最も気を使いました。
先発ローテーション投手は、だいたい中6日で回ります。登板後から次回の出番までに良いコンディションに整えていくのがトレーナーである私の仕事でした。
私が在籍していた頃の先発投手は、田中選手(現ヤンキース)と岩隈選手(現マリナーズ)の二枚看板でしたが、彼らのようなチームの柱であるエースは絶対に離脱させるわけにはいきませんので、トレーナーとして彼らの体を触るのはかなり神経を使いました。
もちろん一部の主力だけでなく、一軍の選手全員を見ていたわけですが、全ての選手の体を完璧にケアできたわけではありませんでした。
中には痛みを取りきれず、力になれなかったこともありました。その度に自分の不甲斐なさを痛感し、それを補うべく技術を磨き続けました。
イーグルス退団
入団して7年目のシーズン終了後、私はイーグルスを退団しました。退団を決意したのは、一軍に帯同することによる家族への負担が主な理由でした。
7年の間に多くの選手との出会いと別れがありました。世間一般で言われているように、プロの世界は厳しいものでした。目の前で見ていただけに、彼ら一人一人と触れ合っていただけに、その厳しさが身にしみました。
しかし、試合に備えて選手の体のケアをし、ベンチから彼らの活躍を応援した日々は私にとって本当に良い思い出です。くしくも、私が退団した翌年イーグルスが優勝した時は我が事のように嬉しかったものです。
私自身は優勝を経験することはできませんでしたが、楽天イーグルスでの7年間は私にとって素晴らしい経験でした。プロという世界でしか経験できないものがたくさんあったと思います。
どん底から優勝まで這い上がったイーグルスというチームに、チームスタッフとして携われたことを誇りに思います。これからもイーグルスは私にとって特別な球団であり続けると思います。
イグナル鍼灸院開業
イーグルス退団後、会社経営をしている祖父の代から縁のある高松市でイグナル鍼灸院を開院しました。
イグナル鍼灸院という名前は、「良くなる」を仙台弁で「いぐなる」ということに由来しています。患者さんの痛み、不調が「良くなる」ように、「その為に全力を尽くす」という思いを込めて名付けました。
開業8年目になりますが、多くの患者様にご来院いただき、『痛みが楽になりました!』『体調が良くなり運動復帰できました!』など、たくさんの笑顔をいただきました。患者様の笑顔が僕の元気の源です。今後もつらく苦しんでいる方が痛みから解放されて笑顔で毎日を過ごせるようにお手伝いするのが私の使命だと思っています。
また、プロの世界で培った私の技術と経験を全て注ぎ込んだ、世の中にない、より高度なサービスを提供していきたいと考えています。